知のアルチザン:白川静先生の著作

立命館大学の名誉教授・白川静先生が亡くなられた。享年96才。膨大な著作のうち、新書や文庫化されたごく一部に触れたにすぎない門外漢の私ではあるが、先生という敬称ぬきに語れない人物であった。
立命館大学といえば、かつて全共闘の拠点大学のひとつだったが、学生たちにも畏敬される存在であったようだ。バリケード封鎖された校舎の中で、先生の研究室だけは連日夜11時まで明かりが灯り淡々と研究を続けていた、という伝説の持ち主である。
学歴は尋常小学校卒。働きながら夜間の教育課程を経て大学教授になった異色の経歴であるが、漢字研究の第一人者として評価されている。
その研究成果を一般向けに解説した著作や字書の内容は、ミステリーの謎解きのように知的な刺激に満ちたものであり、本物の学者として心から畏敬していた存在であった。
文字は人と人とのコミュニケーションメディアであると考えられているが、漢字の誕生した古代にあっては、神と人とを繋ぐ依代(よりしろ)であったというのが先生の指摘である。
白川静先生の主な業績は、甲骨文字や金文(青銅器に刻まれた文字)の発掘資料を元に、字形の成り立ちや意味について従来の定説・俗説を覆す新解釈を加えて20世紀の「説文解字」をつくりあげたこと。愛用のルーペを手にして、古代の文字をひとつひとつ書き写した地道な手作業の足跡は、先生の研究ノートに残されている。
説文解字」とは、AC100年(後漢時代)に許慎なる人物が著した漢字の研究書。漢字の字形の成り立ちや意味を解説した辞典として、千数百年にわたって権威ある聖典として君臨する存在であった。先生は、その聖典に赤点をつけた。許慎の研究の主な元資料は秦時代の文字・篆文であるが、BC221年に秦が全国制覇する1,000年以上も前:殷時代BC1,300年頃に生まれた中国最古の文字=甲骨文字・金文の存在を許慎は知らなかったという、致命的な問題点を指摘したのだ。素人の私でも、漢字の語源を研究するためには、オリジンとなった古代文字の甲骨文字・金文を元資料とすべきであるという先生の主張の正しさは明らかである。
研究内容の奥の深さや独創性は、例えば、次のような文字解説に示されている。
※いずれも著書『常用字解』(平凡社)から引用

道:〜首を手に持っていくの意味〜。古い時代には、他の氏族のいる土地は、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を手に持ち、その呪力で邪霊を祓い清めて進んだ。

荒唐無稽な説のようにみえるが、甲骨文字や金字には首を手に提げている人の象形文字がある。

家:ウ冠の下に犠牲として殺された犬を加える。〜先祖を祭る神聖な建物である廟〜。古い字形では、犬は殺されたものとして、尾をたれた形に書かれている。今の字形ではウ冠の下が豚であるため、(俗説では)昔は人も豚も同じ屋根の下にいっしょに住んだなどと解説されてきた

甲骨文字や金字では、確かに豚の部分に横たわった犬が描かれている。

召:人と口を組み合わせた形。人は上から降下する人の形。口は神へ祈りの文である祝詞を入れる器の形。〜人は神霊の意味であり、神霊を呼び寄せる、まねくの意味になる)

漢字は宗教的儀礼、呪術的儀礼を背景として生まれたというのが白川文字学の骨子。俗説で耳口の口の象形とされる字形・口の大多数は、甲骨文字や金文では神へ祈りの文である祝詞を入れる器(さい)の象形と理解すべきであると先生は主張する。

アカデミズムの本流から外れた経歴や研究内容の独創性のために、異端者存在であったが、1970年:還暦の年に初めて一般向けの著作「漢字」(岩波新書)を刊行。80年代には平凡社の勇断により「字統」「字訓」「字通」の字書三部作を刊行するなど、晩年にいたって業績が一般にも知られるようになった。
70年代初頭に刊行された「孔子伝」では、古くさい封建主義のイデオローグ・聖人君子のイメージが強い孔子について、巫女の私生児にして失意の革命的思想家、葬送の徒にして雨乞いの呪術師、という画期的な新しい人物像を提示している。
梅原猛との対談『呪の思想』によれば、最初から漢字の研究を志したわけではなく、「詩経」と「万葉集」の理解を深めようとして文字研究にはまってしまったとのことである。中国・日本の図書はもちろん、西洋の図書に関しても学識が深く「日本を代表する構造主義者」と評価する追悼文も見受けられる。
鬼瓦のような魁偉な風貌の奥に秘められた、白川静という優美な名前にふさわしいナイーブな詩人としての資質が伺われる次の一文に託して、哀悼の意を表したい。

遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序を超えた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である。
『文字逍遥/遊字論』(平凡社

白川静先生 プロフィール
http://ja.wikipedia.org/wiki/白川静

■書評/松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0987.html

■追悼/白川静先生を悼む(内田樹研究室)
http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/70

白川静先生 略年譜
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/shirakwa/ryakureki.htm

白川静先生 著作/一般向け※「字統」「字訓」「字通」除く

孔子伝」(中公文庫)
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「漢字」(岩波新書
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「漢字百話」(中公新書
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「常用 字解」(平凡社
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「文字逍遥」(平凡社
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582760465