歌垣〜連歌、日本の共同制作文芸のDNAを継承する「電車男」

遅ればせながら「電車男」を読んだ。一級のエンタテイメントであり、ルポルタージュだと評価したい。無名の一般大衆がマッシュアップして創り上げた集合知の結集として、WEB2.0CGMを代表する作品でもある。
話題作やベストセラーともてはやされると、かえって敬遠してしまう天の邪鬼な性格もあって放置していたが、たまたま図書館でみかけて借りてきた。ナイトキャップがてらに読み始めると面白くて最後まで読んでしまった。立ち読みやマスコミ等で粗筋については知っていたが、実際に通読した感想は★★★★★(五つ星)。
「今世紀最強の純愛物語」という惹句は誇大ではあるが、画期的な作品であることは間違いない。出版された2004年は若い女性ふたり、金原ひとみ蛇にピアス」、綿矢りさ蹴りたい背中」が芥川賞を受賞した年である。若者の恋物語という永遠のロマンをテーマにした「物語」として、この作品のリアリティや面白さは受賞作に勝るとも劣らない価値があると思う。表現手法の革新性の面では、圧勝といってよい。

1.匿名掲示板の功罪

匿名で自由に書き込みできることは、無責任な風評の流布や誹謗中傷の横行を招きがちな一方で、個々人の本音や心情を表現できるというメリットがある。両者は貨幣の表裏のように一対のもので、切り離すことはできない。書籍版ではお下劣な書き込みはカットされているが、生ログではかなりきわどいコメントも大量にあったはず。匿名掲示板の功罪については、生ログを焼いたCD-ROMを「電車男」が「エルメス」に手渡す際のコメントが的を射ている。

2ちゃんねるって知ってる?」
掲示板の?」
「うん、匿名掲示板のね。色んな人間の感情がそこに渦巻いてる」
と言うと彼女は「?」という表情だった。
匿名掲示板故の汚さがある。けど、その逆もある。
こう言い訳のようなものをした。
本当はもっとダラダラ説明したけど…。

2.日本文学史のエポックとなる文体・表現スタイル

「物語」は2004年3月14日、2ちゃんねる掲示板「男達が後ろから撃たれるスレ 衛生兵を呼べ」に書き込まれた下記のコメントから始まる。

731名前:Mr.名無しさん 投稿日:04/03/14 21:25
すまん。俺も裏ぐった。
文才は無いから、過程は書けないけど。
このスレまじで魔力ありすぎ…
おまいらにも光あれ…

同年5月9日まで約2ヶ月間の掲示板への書き込み記録を元資料にした「物語」は、amazonでは「文学・評論>文芸作品」に分類されているが、インターネット掲示板の利用状況を再現したノンフィクションや、ドラマのシナリオとも解釈できる内容を含んでいる。
文学・評論>文芸作品としてみる場合、2ちゃんねる独自の言い回しが随所に現れているだけでなく、インターネット独自の絵文字=アスキーアートが重要な役割を果たしている。
明治初期の言文一致体による小説と同様に、日本文学史のエポックとなる文体・表現スタイルの作品ではないか、と私は考える。ド素人の日常茶飯事的な対話記録が「文学・評論>文芸作品」にまで昇華することがありうることは、プロあるいはプロをめざす作家たちにとって脅威であろう。個人的な感想では、村上春樹の「羊をめぐる冒険」や短編「蛍」、あるいはサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思わせる文体である。稲垣足穂安部公房の前衛的な作品にも通じる冒険や遊び心にも通じるものがある気がする。

3.出版社・新潮社のプロフェッショナル編集者の存在

著者は中野独人(なかのひとり)=「インターネットの掲示2chに集う独身の人たち」を意味する架空の名前となっている。確かに、一次著作権者は中野独人たちであることには間違いないが、二次著作権者としてプロの編集者の存在なしには、最後まで通読してしまうような「物語」としての完成はあり得なかったと思う。秋葉オタクの青年と友人達の交換日記=インターネットの書き込み(生ログ→まとめスレ)記録を「電車男」という一冊の「今世紀最強の純愛物語」にまとめるにあたっては、腕利きのプロフェッショナル編集者が関与していることに間違いない。
例えば、ブックカバーデザイン、カバー折り返しや扉ページの惹句、書き込み記録の要所要所に挿入されたト書きに似たコメントや、下記の目次などは明らかにプロの仕事。黒子としてこの「物語」を生み出した担当編集者が出版社・新潮社の社員か外注スタッフか、1個人か複数の人物かわからないが、一般大衆のナカノヒトリとして敬意を表したい。

contents(「電車男」目次)
Mission.1
緊急指令「めしどこか たのむ」
Mission.2
「ちゃんと掴んでますから」
Mission.3
彼女はそっと俺の手を引く
Mission.4
このカップを使う時が来た
Mission.5
「あんまりその気にさせないで下さい」
Mission.6
奇跡の最終章
後日談
「こんなに頑張ってたんだ…」

4.日本の伝統文化:歌垣〜連歌(共同制作による大衆文芸)

WEB2.0CGMマッシュアップ集合知などと言うと目新しく聞こえるが、日本には個人ではなく集団で創作する口承文芸の伝統がある。古代の歌垣や、中世の連歌がその一例。
古代の歌垣は、男女が集まり、集団で和歌をうたう集会。人々の交流の機会としてだけではなく、性的な交流の場でもあったという見解がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/歌垣
中世の連歌も日本の伝統的詩形のひとつで、複数の人間で和歌の上句と下句を繋げていくもの。集団制作による詩である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/連歌
新聞に読者投稿コーナーがあるほどポピュラーな存在である和歌や俳句は、歌垣〜連歌の伝統を継承したものであるが、掲示板やブログ・SNSなども共同制作による日本の大衆文芸のDNAを継承しているのかも知れない。若者達の孤独な心象風景を背景にした恋物語は、時を超えて永遠のロマンであるようだ。